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 2019年6月26日(水) 17:23 JST

台湾生まれの「彼」の戦後史

  • 2011年7月12日(火) 19:41 JST
  • 投稿者:
    Admin
日本NEWS

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 戦後、東京・新橋の繁華街で中古カメラ商を営んでいる香川博司さん。台湾での名前は「鄭慕鐘」さんという。今年88歳になる。日本の統治下にあった台湾の台中生まれ。台中第一中学を出て、日本を目指す。日本の大学を受験するため、海を渡った香川青年は、熊本で書生をしたりするなど苦学して二浪の末、日本の大学に入った。



 しかし、ときは戦中。日本の戦果があまり芳しくなくなると、香川さんも学徒動員で軍隊に入隊することになった。そして大日本帝国軍人として北満で終戦を迎えた。ロシア兵に言われるままに連れて行かれ、たどり着いたのがシベリア。戦争捕虜として「抑留」された香川さんたちは零下40度・厳冬のシベリアで社会主義ロシアの建設に使われた。軍人を含む日本人60万人がシベリアに抑留されたが、生きて帰れたのは20万人に過ぎなかった。山を飛び回る野ねずみがごちそうだった、という飢えともたたかった。

 生きる意欲を一瞬でも失うと、そこには死が待っていた。そんなところから香川さんは4年後「日本」に戻る帰還船、信濃丸に乗ることができた。「まぶたの母」の歌でも知られた鶴舞の港に接岸した。「生きて日本の土を踏めた」。その喜びはもちろんあった。しかし、「日本」は、戦争に負けて台湾を手放していたため、香川さんの生まれ故郷は既に「日本」ではなかった。

 日本人だったら、鶴舞に着いた、そこから自分の故郷を目指せばよかった。しかし、香川さんにとって戻るべき故郷は既に異国。九死に一生を得て日本に戻ったとはいっても、香川さんの日本人とは違う苦労がそこから始まった。

 最初に検疫でDDTをふりかけられ、消毒液の浴槽に入れられた。その後、役所から住所と本籍を聞かれた。住所は書生として住み込んでいた熊本だが、本籍は台湾、と書いた。そこで日本の役所は香川さんを台湾に送還することに決めた。後で聞いたところでは、書生をしていた熊本の坂井さんは新聞に掲載された復員の名簿に香川さんの名前があるのを見て、鶴舞まで迎えにきていたとのこと。しかし、そのとき香川さんは「外国人」として大村収容所に送られていて、顔をあわせることさえかなわなかった。収容所の中で台湾の話を聞けば、蒋介石が実権を持っていた台湾では2.28事件などが起きており、「台湾には帰りたくない」と思ったという。そこで出会ったのが、「親が危篤でなんとかして早く台湾に帰りたい」と言っていた陳さんだった。陳さんの船はいつ出るかわからないが、香川さんの船はすぐに出るという。香川さんは陳さんと入れ替わることに決めた。当時は証明書などに顔写真などがなかったので、この「交代」は、誰に知られることもなかった。

 陳さんを無事に台湾に送り出した後、香川さんは日本に「陳」さんとして残った。残った香川さんは、次に大村収容所から出ることを考えた。そのままいれば、いずれ「陳さん」として、やはり台湾に送還されてしまう。幸い、彼は勉強家で英語が得意。当時の収容所のアメリカ人の衛兵に、その衛兵がわかるはずもない日本語の「身分証明書」を見せて、英語で話したら、難なく衛兵は自分を日本人と思って通してくれたそうだ。香川さんはそうして自由の身となった。そして、書生をしていた熊本の坂井さん宅に向かった。

 「生きていたのか!」。熊本では坂井さん夫妻は香川さんを抱きしめて泣いた。早速、赤飯と鯛とお酒で帰還を祝ったという。そして翌日、役所で復員手続きをとった香川さんは、米穀通帳をもらった。この時代、お米の配給を受けることができる証明書「米穀通帳」は、身分証明書のようなものだ。香川さんはその通帳を受け取るとき、「鄭慕鐘」という台湾名を使った。このとき、香川さんは正式に日本に「復員」したのだ。

 香川さんは台湾人として、戦前の日本の軍人として働いたのみならず、敗戦の日本の兵としてシベリア抑留を経験した。いま、日本でこの経験をした人は、香川さんを含めて3人だけだという。

 香川さんはその後、関西で4つの会社に就職したが、その4つの会社ともつぶれてしまった。仕方なく、東京に出てきた。英語がしゃべれるので、米軍関係の仕事をいろいろやったという。そのなかで、米軍の兵士や将校の写真の現像の仲介などをするうち、兵士がお金を東京で使いきってしまって、持っているカメラなどを売る、ということをしているのがわかってきた。香川さんはお金に困った米兵からそのカメラを安く買い、日本の業者などに売る仕事を始めた。これがあたった。今も香川さんの事務所はその商売を始めた新橋にある。今はもう目を悪くしていて、カメラの売買の仕事はほとんどやっていないそうだが、取材のときはライカのM-3(1954年)と、オリンパスのOM-1(1973年)を出してきて見せていただいた。かたやドイツの有名なカメラ、かたや日本製のカメラの「名機」とうたわれたものだ。触らせていただくと、そのどっしりとした重さが今のデジタルになったカメラとは全く違う。機械の「信頼」が手に伝わってくる。カメラ産業の華やかな時代を思い起こさせる感触だ。

 香川さんは、昨年、菅直人首相名で「慰籍の念を表す」書状を送られた。そこにはこう書いてある。

 「戦後酷寒の地において長期間にわたって劣悪な環境の下で強制抑留され過酷な強制労働に従事し多大の苦難を強いられた御苦労に対し政府として衷心から慰籍の念を表します」。

「精神力と生への執着なくして今日の帰還はない」。

 香川さんが台湾協会の機関紙に寄せた文には、そう書いてあった。

 その、香川さんご自身が、自分のことについて書いた文章も取材で貸していただき、拝見した。その文章では香川さんはご自身のことを「私」とは書かず「彼」という三人称で書いている。自分が生きてきたその道程が今では信じられない、と思える遠い世界の出来事のように思い出されるからそう書いているのか?それとも、自分のことを謙譲した言い方として「彼」として書いているのか?あるいは自分を客観的に見る心の余裕がそうさせているのか?今度お会いしたときには、そのことを聞いてみたいと思った。

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